体操着ニュースから考える学校教育の問題点と管理教育とは?

卒業までにどんな力を育ててやれるのかが大事なことで、管理もそのためにあるものであってほしい。

先日のこのニュースを聞き、なんじゃこりゃ⁉と思った人は多いと思います。

私も、そんなことを指導しているなんて、日本という国であり得ないと思いましたが…。

川崎市立の一部の小学校で、体操着の下の肌着の着用を禁止する指導が行われていることに対し、批判の声が寄せられている。 3月9日に開かれた川崎市議会の予算審査特別委員会の予算審議で山田瑛理議員が「多くの子どもが『嫌』と言っている」と言及したことが発端で、同市教育委員会は見直しも含めて検討することを明らかにした。

 

山田議員は委員会で「小学生のお子さんの保護者から体操服の下の肌着の着用を禁止されていると相談を受けました。大変驚きました」と前置きした上で、「要は、体操服の下はすぐ肌ということです。本当にそういう指導があるのか。高学年でも肌着を脱ぐことになっている学校はあるのか、またなぜそのような指導をしているのか」と質問した。

 

これに対し市教委側は「教育委員会としては指導は行なっておりません」と回答し指導については否定したが、「運動後の汗などによって、体を冷やさない等の児童の健康面や衛生管理面の配慮から、主に低学年の児童に対して肌着を着用しないよう指導している学校が一部あることを確認している」と認めた。
引用:HUFFPOST

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またしても出た学校の管理教育的問題?

このニュースを聞き、学校現場ならありそうなことだなと思ました。

私も現職で勤めてきた中で、世間一般ではなんてことないことがなぜか学校内では許されないことが多くあったことをそれほど違和感を感じないでいたことを思い出します。

今でも多くの「あれ?なんでダメなの?」が存在しています。

でも、そのなんでダメなのの答えは、

金子みすゞさんの「みんなちがってみんないい」という意味の逆をとって、

「みんないっしょでそれでよい」という感じですね。

人と違うことを認めない環境になってしまっていますね。管理上、その方が便利でやりやすいのは当然です。ところが、管理していいところはある事柄だけのはずが、気持ちや行動までを管理し始めてしまったことに問題があります。

日本の学校教育の基本は一斉指導がほとんどです。そして、学校教育の具体的な行為が伝達することです。

学校教育のほとんどが集団指導ですから、個別指導よりも集団を一気に指導していく方が効率的です。短い時間に多くのことを伝達できます。

こうした学校教育の方法も日本人にはぴったりだったのかもしれませんが、現在ではかなり見直されてきたと思いますね。

学校の先生の言葉は子どもたちに大きな影響を与えますが(これは人それぞれです)、学校の先生もちゃんと考えないで「独断と偏見」で発言していることが問題でしょう。

簡単にまとめることは難しいのですが、以下のような捉えをしていることは確かにあります。

  • 学校はややこしくなることをできる限りさけてきたということ
  • 日本人の質素倹約、質実剛健、自由は悪という意識があるということ

昨今、学校現場は世間の風当たりも相変わらず強く、先生たちも疲弊しているようです。

目の前の問題も多いのですが、根本的な改善をしない限り、前線の兵士同然の先生たちが一番被害を受けているように感じますが、皆さんはどう思いますか。

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学校管理のおかしさはずっと前からある

私が現場にいたころでも、今にして思うと変な指導や考え方がありました。

地方の学校でしたが、例えば、世の中でハーフパンツというものが流行り出しました。そのころは、子どもたちの運動着は長袖長ズボンに夏は半そで短パンでした。

指定の運動着はありましたが、必ずしもそれを着ないといけないわけではなく、同じような系統の色ならばOKでした。ところが、このハーフパンツはよからぬスタイルと判断していたのです。

普段着はいいけど、学校の運動着としては許されなかったのです。

あれから長い年月が経ちましたが、今では何でもよくなっています。

ハーフパンツの何が学校現場ではだめだったのかというと、短パンが体操着の形なので、長めのハーフパンツは短くないからダメだという判断です。

運動することには支障はないという目的にあった判断がされず、全員同じものが正しいという感覚がありますね。学校というところは。

一斉に動いていればそういう異質なものは受け入れないような体質になりやすいのでしょうか。みんなに合わせるというか、違うものは排除するという感覚ですね。

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学校現場はとかく批判されやすい

保護者からのクレームが多いのは家庭の価値観の多様化でしょうか。

以前は学校の方針には家庭は従ってきたわけです。学校はそのくらい正しいと思われていたからです。先生の言うことに間違いはないと信頼?されていたことも確かです。

ところが、それが崩れてきたのはどうしてなのでしょう。

先生の質が落ちた?というよりも、先生も個を大事にするようになったのは確かです。

学校組織よりも自分を大事にする傾向はあります。学校をよくしようというよりも自分のクラスをよくすることに一生懸命で、全体が見えていない先生。みんなで高めあうという感覚が少なくなり、先生たちの協調性とか一体感が生まれなくなっているようです。

トップの校長先生の指導力や包容力が影響していることも確かでしょう。

そんな学校が多くなっているので、問題が発生しても正しく対応することができないのでしょう。

日本の学校教育体制ははっきり言って昔のやり方です。一斉指導とか集団主義とか個よりも公を大事にして教育する方法です。でも、家庭や個人は公よりも個を重視するようになりました。会社でも同様に個の意見や行動は尊重されにくいですよね。会社第一主義的なことはありますよね。

そのやり方でみんなで一つになって成果を出してきた経過がありますから、この方法がよいものだったわけです。

今では、個を大事にするようになって会社のためより自分が大事という時代になりましたが、お互いによくコミュニケーションをとって仕事をしないといい仕事にはならないということがさらに理解されるようになりました。

学校も同様です。批判が多いのは、先生と親のコミュニケーションが激減したことです。それによって信頼関係が築きにくくなったということです。

学校は敷居が高いと言われていますが、その昔は先生と親がもっと親しくしていました。そういう場がありました。親がもっと学校に尽くしてくれていました。自分の時間を学校のために使っても文句なんか言いませんでした。それが一般的だったわけですが、それでコミュニケーションがとれていたのです。お母さん同士も井戸端会議でよく話学校の情報も得ていたり、よくないこともいいことも筒抜けだったわけです。

はるかに今よりも親同士も学校と親も関わり合いにあふれていたわけです。だから、クレームになる前に解決していたり、分かり合う関係ができていたということでしょうか。

親と学校や先生とのコミュニケーション不足が学校が批判されやすい原因ではないかと思います。

学校は管理に走るが、先生までが管理的になってはダメ

校長先生や教頭先生は管理職ですから、安全第一に考えるのは当然です。

ところが、先生たち自身が管理的になってしまうと、子どもたちとの信頼が崩れます。

中学校などは校則が厳しい面がどうしてもありますが、そんな中でそこまで管理的になる必要があるのかという事例ですが、

自転車通学している子どもが、自転車が壊れてしまって弟の自転車を借りて登校したところ、それを指摘され、それを乗らないで置いて帰るように言われたという。

中学校側にもいろいろな事情があってそういう対応をせざるを得ないということなんだろうと察しますが、やはり何が重要なのかということを判断できないような管理はダメでしょう。

一方で、子どもたちの精神年齢が低くなっているということも管理が強くなってしまう傾向かと感じます。

中学校に入学してきた1年生が授業中に工事のクレーン車が動いているのを珍しがって我先に窓に集まって見物し始めたそうです。まるで小学校の一年生を見ているようだったと…。

まあ全員がそんな純朴な?子供ではないにしても子どもに任せたら不安になる姿勢や態度があることも確かなことです。

しかし、やらせていない任せていないという現実が多いのも確かです。

ある高校の修学旅行の一場面ですが、子どもたちを並ばせて人員点呼するのに、いちいち先生が数えているのだとか、そんなことは子どもたちにやらせることでしょう。集団で行動するにはお互いに協力し合うことは基本です。

このことを教えてくれたのは、一緒に同行した添乗員さんです。なんでそんなことを子どもたちにやらせないのだろうと呆れていたようです。

何でも先生が確認して号サインを出すようなことをしているから、子どもたちが自分で考えて行動する機会が減ってしまっているかもしれません。

 

先生がやれば安心で間違いはないということはわかりますが、何のために修学旅行に行くのかだって大事なことでしょう。そのくらい自分たちでやりますよ。という子どもにならないと何を勉強してきたの?ということです。

 

もうちょっと学校の先生は、物事の在り方をきちんと教えていくべきですなんて、世間からまた叩かれそうなそんな話ですね。

机の上の教科にばかり重要視してしまう学校教育のゴールは受験ゆえの悲しき事情は分かるのですが、精神的に大人に向かっていかないような指導はダメでしょう。

それを一番変えていけるのが、先生なのですから。事件は現場で起きているのだというあの言葉のように、現場で教師が教えなくて誰が教えてくれるのかということですね。だから、先生の言葉や行動が子どもたちに与える影響というものは大きいのです。

先生は、卒業していくときにどんな人になっていてほしいのかを大事にして指導するのが仕事と言ってもいい。それが学校教育の姿だとも思います。

管理賛成とか反対とかいうことでなく、大事なことを教えることできればそれが教師の役目になると思います。

大事なことは物事を考えるということ

学校教育のおかしいところを挙げたらキリがありませんが、そもそもいつのころからか日本の子どもたちは精神的に幼くなりました。すくなくとも、戦後だんだんと子どもの権利だとか個人主義だとかが大事にされる一方で、管理をして安全を優先したり、効率化を求めたりするなかで、教育にもいわゆる「遊び」がなくなってしまったように思います。

学習指導要領によって、日本どこでも同じ質の教育が展開できるようになっていますが、それをわきまえたうえで、子どもたちには自分の頭で考えて行動して答えを出すという経験を積ませてやることが大事な役目だと思いますね。

運動着の下着を着るだの着ないだの、そんなことははっきり言って学校の先生が指導することではなく、子どもたちが勝手に考えればいいことです。

何でもカンでも先生が指導助言するということをしているから、今回のようなあきれる事案が発生するのでしょう。

まとめ やばいぞ日本

国の将来を考えたときに、最も大事にすることが将来を担う子どもたちがどんな人になるかです。ややもすると某大国がやっている教育などもあきらかに洗脳と言ってもいいでしょう。私たちの教育内容も子どもたちを洗脳するようなものです。

管理は大事な部分がありますから、全く自由なんてことは愚です。

ただ、何を管理するのかということを大事にしていかないと、子どもたちに自分たちで考えて行動する力は生まれにくくなってしまうと思います。

この問題は、学校だけでなく、日本にいる国民が全員が何を大事にしている国民なのかということに尽きると思います。

文明は発達していますが、果たして文化を伴っているかどうか、それが重要なことですね。

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