教師の指導が子どもの命を脅かすなんてことはあり得なかったはずです。子どもが教師によって命が危い?なんてニュースが出てくるとまた学校現場に上からダメダメ光線が降ってきます。
教師の非違行為に関する報道は学校現場としては身につまされる内容ですが、全国のほとんどの学校は危ないことをしているなんてことはほぼありません。一部の学校だからと学校の指導を肯定的に擁護するわけではないのですが、そんなにひどいことを学校現場はしているはずがありません。
日本の文化とか気質とかそういうものがあって、今があることも事実なのですから、叱責はダメなことと決めつけることはないと思います。そんな気持ちで投稿しました。
子どもたちが教師による暴言や過剰な叱責によって追いつめられ、自死に至るケースは「指導死」と呼ばれる。最近、この指導死に当たるのではないかと、問題化する子どもの自死が増えている。これらの自死の背後には、どれほどの数かは分からないが、自死には至らないまでも、教師に叱られることで深く傷ついている子どもが多くいると考えられる。
指導死について文部科学省に申し入れ書を提出する大貫隆志さん(左)。大貫さんは2000年に中学2年生だった息子を指導死で亡くした。「指導死」という言葉も大貫さんがつくった=2016年9月
こうした「叱る教育」は、子どもの心・尊厳を傷つける精神的暴力である。しかし、学校現場でも、教育学の世界でも、叱ることそのものを問う動きは乏しい。
◇子どもの自主規律・叱らない教育をめざす学校へ◇
「実験学校(オルターナティブスクール)」が法制化された台湾では、「叱らない教育」を教育方針としている実験学校がいくつかある。筆者も訪問した小学校では、子どもの自治的な規律を生活討論会で議論し、さらに学校法廷で運営していた。 子どもの権利条約の淵源をたどれば、条約の精神的父といわれたヤヌシュ・コルチャックの存在がある。彼が経営していた孤児院は、子ども共和国と呼ばれ、その社会秩序の維持は、子ども憲法下で子ども法廷によっていた。 日本でも戦後の教育改革期、新制高校の一部に、新憲法公布に触発されて「三権分立型の生徒自治会」が誕生した(神奈川県、静岡県など)。立法=生徒総会、行政=生徒会執行部と並んで、生徒による司法委員会などが置かれ、学校規律(懲戒)への生徒参加が始まった。こうした動きは、その後「リンチになる」などとして、学校現場の支持を得られず衰退していく。そして、教師主導の懲戒体制が定着してしまった。
現在、日本の学校では「ブラック校則」が社会問題になるなど、学校・教師による子どもへの統制が強まっていて、生徒側の自主規律は望むべくもない状況である。しかし、だからといって、教師の過剰な叱責や暴言で傷つく子どもたちを放置することはできない。
上記の引用:47news
教育現場のブラックな労働環境と日本の現在の教育体制を考えれば、叱らないとか叱るとかいう以前の話だと私は思います。
そもそも人間の尊厳を大事にするなんてことは当然のことですが、そういうことが行われていないとか、異常な現実が学校にあるということです。それは、教師がそうしているという話になってしまいがちですが、必ずしもそうではなく、学校の在り方がすでにおかしいということです。
中学校の教育は40年ほど前に破綻していると思っています。それからほとんど教育内容も教育体制も変わらず、時代に合わないというか、中学生の成長に合わない教育になっていると私は思うのです。
その中で、中学の先生方は本当に苦労し、疲弊しそれでも何とか頑張っているのでしょう。
そして、こうした「指導のやりすぎ」が多くなってしまったということでしょう。
叱らないで子どもたちに指導できる先生がいますというと、その指導力に注目するものですが、先生方も同じように経験し、スキルを得てきたわけではありません。誰もが同じような指導ができないまでも、みんなでそれを補い合って子どもたちに接してきたわけです。
教師全員が叱らない先生で同じような先生になる必要なんてあるのでしょうか。いろいろな人間がいて、その人から人を知るべきなのであって、そうした体験や経験が後々生きてくるのが人生だと思いますし、その思い出がどこかでまた自分や経験と重なり、考える材料になるのではないでしょうか。
もちろん、命にかかわるような指導のやりすぎや人権を無視するような指導はこの話にかかわらず教師としてというわけではなく、誰もが同じように、「してはならない」ことです。
しかし、学校というところは、どうしても教える側と教えられる側という立場があるところに、子どもという判断や経験が未熟な段階の人間を教えることが仕事になっているわけで、よいことは褒めても間違ったことはそのままでよいということにはできないでしょう。
それでも、体罰しないことが当たり前になったり、叱るよりも褒めて伸ばすなどの指導が浸透していることは事実です。
こうして学校もいろいろと変化してきているのですが、指導が難しい子どもが多くなり、社会性を築けない子どもも非常に多くなりました。
小学校でも精神的にも幼い子どもが多く、対人関係が苦手な子ども、中学校ではさらに多感な時代に加えて、耐性が極めて乏しい子どもも見られます。また、一人になることを極度に気にして、群れることが安心になってしまうおかしな状況からも抜け出ることができません。
そこに勉強や部活や人間関係、さらには受験と、不安なことばかりの生活が繰り返されていたら、精神状態も不安定になるのは当然です。
先生も子どもたちの心の中をすべて察知することは難しいわけでして、何を考えているか本当に困りながらも、厳しくしたり、なだめたりしているのです。何度も同じ過ちをしたり、ルール違反をしたりすれば、気をつけなさいだけでは済ませられない思いになるでしょう。
そうしたストレスが影響し、過度な指導になってしまうことは理解できます。でも、それで仕方がないということはあり得ないわけですから、教師が折れて子どものさらなる成長をなんとか見守るということが非常に多いと思っています。
子どもは教師の言う通りにはなりません。だから、ほとんど裏切られるような日々の繰り返しの中で、ぎりぎりの指導を行っている先生も多いです。まあ、それが教師の現代の姿です。
ですから、規則を作り、それに外れたら違反であるということを例外なくやっているということもこれ以上大変な状況を生み出したくないという思いがあるからではないでしょうか。
ある程度、縛らないと子どもたちが何でもありの世界にしてしまうようで、それを教師のあいまいな言動で助長してしまうことを恐れているとも思えます。
こうした指導が学校現場で多くなっているならば、あらためないといけません。
しかし、しかしです。こうしたニュースがあると、すぐに何でもかんでも人権だ、暴力だと悪い方にばかり注目します。批判的な声には敏感で、肯定的な声はそれにかき消されてしまうことは教育界には非常に多くなりました。
何でも安心安全を第一にするという歩み方には私はどうも納得できません。
このニュースの内容は行き過ぎた指導が当たり前のように行われている現実があることを重く受け止めなければならない、そうした指導を即刻なくさなければいけませんということでしょう。
けれども、指導の中から叱るということが人権侵害になるという理解はできないのです。間違っていることを正すためや、気持ちが折れそうなときに励ましの喝を入れることが人権侵害とは到底思えないのです。
叱ると怒るは別であっても、教師が心を込めて語るときに涙することはよくても、喜怒哀楽の怒りは人権侵害になるというのは、どうなのでしょう。
子どもたちに冷静に落ち着いて対応することは大事でも、ロボットみたいに感情を出さずに言葉だけで関わることが人とのかかわり方なのかと思ってしまうのです。
何でもそうですが、「やりすぎ」はよい結果を生みません。今の世の中、やりすぎが多くなりすぎでそれが普通になっているように感じます。
ほどほどにやることはバランスを保つことになります。先生も同じでいい先生ばかりでは面白くないと思うのですが。面白くないという言い方はちょっと語弊がありますが、教室の子どもたちもいろいろな子どもがいるから本当はそれが学びになるのであり、同じ人の集まりは成長がしにくいとも思っています。異質なものがいるからこそ、成長がある。そう思います。
間違う可能性があるものを何でもダメとしてしまうようなこともはっきり言って過保護と同じではないでしょうか。
異質なものを抱えられる世界がどんな世界にも必要なことではないかと思うのです。
とにかく、行き過ぎた指導というものは厳しく改善しないといけませんが、叱るという行為が教育的ではないということには賛成はできません。
教育は人です。感性を豊かにするということは傷つくこともありうるわけで、私は教師が感性の在り方をより一層磨いていくことは非常に大事なことです。そして、感性を磨いていけば叱るという行為はより洗練されていくのではないかと思うのです。
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